昭和42年11月18日 朝の御理解
信心の、有難さというか、それは、良しにつけ、悪しにつけ、神様の、働きの間違いなさという事が、わからせてもらうという事が有難い。皆さんはどうでしょうか。おかげを頂く事が有難いというのでなくて、本当に、良しにつけ、悪しにつけ、神様の間違いなさというものが感じられる。それが、信心の有難さである。また、それが、感じられなくなったら、どんなに、御教えの全部を、そら暗記させて頂いても、値打ちのない事である。そういう信心は、信心の有難さというものはない。どんなにというか、言うなら、えー、宇宙の大真理を知ったところで、大法則を、分ったところで、その、神様の働きが、身に、心に感じられなくなったら、信心の値打ちはないのである。ね。言うならば、宗教学者というような方達は、そういうような事の全てを、ま、全てというか、そういう事を広く深く分かっておる人達である。学問的に勉強した人達である。けれども神の実在も、仏の実在も、分っておる人達だけれども、その働きを見守って、感じれるという人達ではない。そう言う事は分らなくても、神様の働きの間違いなさには、日々、恐れ入ってしまうという生活。そういう生活の中にこそ、信心の有難さというのはあるのです。
昨夜、私はあの、ちょっと、夕食の時に、お客さんがあったもんですから、お神酒を頂いて、少し、お神酒を頂きすぎて、もう、とにかく、休まにゃきついごとなったから、ま、御祈念の時間まで休ませて貰おう。それで休ませていただいた。目が覚めたらもう、御祈念が始まっておった。ま、仕方がないから御無礼して、そのまま、休んだら、十一時ちょっと過ぎに目が覚めた。さあ、それからというものはもう、全然眠られない。三時を打つのを覚えておりましたから、それから、一時間あまり、まあ、うつらうつらしたようにある。それで、今朝の目覚ましというのも、もう、御祈念十五分前ですよと言うて起された。それでもその、目覚ましがさっぱりしない。というような事でございました。それでもう、私共のように、大体、休む時間が決っておりますとですね、もう、二時間か、三時間か余計休んだら、もう腰が痛うしてたまらんです。もう、あーたその、七時過ぎから休んでおりますからね。言うただけはある。もう朝からその、腰は痛い、眠ってはいない。もう、こんな馬鹿らしい話はない。まあ、そういう体験は、そのようなことからでけではない、様々な中から感じる事が出来る。いわゆる、良しに付けても悪しに付けても、神様は間違いがないな。眠る時間といったようなものでも、ほんにこう、与えられた時間だけでも、結構おかげが頂けるようになっておるんだけれども、少しでも、楽をしたいと言うて、ま、早く休んでおる。休んだら、結局は、もう、休んだ時間は、返って、普通、いっぱい御用頂いて、休ませて頂いて、熟睡させて頂くよりも、返って、熟睡も出来ず、永く時間を休んでおりますから、腰は痛いといったような事である。ほんとにその、神様の間違いなさという事が、有難い上においても、間違いのない事だなと分らせて貰う。
三、四日前でしたか、なるほど、朝の御祈念が最近は、非常に少ない。取り上げて、皆さんが仕えておられる。なるほど、一日のお参りも非常に少ない。毎日、右と左のご結界の、お届け数がここで書かれる。それは、そんなことがあってはならない、と言うのが私の生き方なのです。ね。それは、言うなら、百姓の方が参ってこなくても、思いがけない、いうなら、商売人の人が参ってきたり、思いがけない人達が、遠方から参ってきたりしてから、お届けの数は、大体、同じでなからなければならんというのが、私の信条でもある。また、その事も、間違いなくおかげ受けてきておる。ところが、三十人も、四十人も、普通のお参りよりも、お参りの数が少ない。丁度、その日も、そう少のうございましたので、末永さんが、その、ここで書きました。今日は何人、何名の、お届けがあっておるという事を持っていきます。例えばあの、最近、この頃少ないですねえち、こう言われた。少ない、丁度、私は、お初穂の整理をしておった。そこまで、末永さんが下がった時であった。そこへ朝の、御祈念の後、後から参ってきた人達が、御理解頂いておる時であった。神様から、こんなにも間違いのない事という事をお知らせとかにゃいかんぞ。なるほど、人数は少ない。けれども、お初穂は、何時もより多いという。これが、ここ四、五日の状態です。ね。ここ、何日かがその、間違いなさと言う事が、バランスが出てこなければなりません。末永さんに、見てごらん、ちょうど、ここへ出して、その日のお初穂させてもらい、いつも、それで大体分るのです。何時もの丁度、倍はあります、お初穂が。というのが、ここ四、五日。お参りが少ない、ね。人間の数は少ないけれども、お初穂の数は、いわゆる金額的には多いという。というようにですね、それが、有難い意味合いにおいても間違いがない。ね。かというと、ほんなら、夕べのように、休み時間というものが、まあ、そんなことは、先ず、ないですけれどもねえ。昨日、そんな訳で、その、七時にまた、起きるつもりであったけれども、もう、言われたときには、もう、九時半。それから、もう、そのまま休ませて貰ったのは良いけれども、十一時過ぎにはもう目が覚めておる。さあ、それからというものは、どっこい休まれない。ね。何時もよりも、何時間と寝るだけは寝ておる。だからさあ、もう、腰は痛い。そして、朝方になって、とろっと、こうする。そして、いよいよ、御祈念の時間には、もうさあ、十五分前ですよと言うて起されて、あわてて、起きてくる気分の悪さというものはです、ね。ほんとに、どうにも仕様のないほどであるけれども、そのように間違いがないと言う事。どうであろう。七時から寝て、ぐっすり五時まで熟睡のおかげを頂いておる、そう言う事であったら、どういう事になるだろう。こら、時々は、そういう事になってくるような事にまでなってくる。ね。そういうようなことをですね、良しにつけても、悪しに付けても、体験させて頂いておるうちにです。神様が間違いないことだと言う事が分る。それが有難いのです。けれども、ここに注意しなければならないことはですね。そういうような事が度重なっておっても、その、平気であると、本当に熟睡出来るようになりますよ。熟睡できるようになったら、もう、大変ですね。言うなら、神様はもう、いわゆる、言うなら、お気付けも頂けなくなってきたら、もう、信心の有難さはなくなってしまいます、ね。お気付けでも頂けるという時には、おかげのほうにも、間違いのないおかげの頂ける時です。ね。ですから、それは、後者にはなりましょう。それこそ、宗教学者じゃないですけれども、ね。それは、勉強すれば、その神様は、ほんなら、神様を学問的に分ることは、出来るようになりましょうけれどもです。その神様が、身近に感じられなくなったら、もう信心ではありません。ね。その神様を身近に感じられるから、有難いのです。それは、良しにつけ、悪しにつけて、そうなのであります。ね。そこんところを、ひとつ皆さんが、本当にわかられる、体験される、そこに、なるほど、修行というものが有難いものだ、お参りというのが有難いものだという事に、ま、なってくるのでございます。そこから、言うなら、有難いほうのおかげもです、間違いなく、日々の、お参りといったようなことでもです、ね。お参りの数は、少ないけれども、内容的には、返って、おかげを受けておる。というように、おかげの間違いなさを感じさせて貰う。そこに私は、有難さと、神様の間違いなさを分らせて貰うて初めて、有難さというものが頂けるものです。神様の間違いなさも分らずに、有難い、有難いと言うておるのは、それは私は本当の有難いのじゃないと思う。ね。道理が分ったり、ね。理屈が分ったりしただけで、その事が有難いものではない。神様の実在というような事を分っただけでは、実在が、一切自分の身に心に、または、形の上に、はっきり頂いてこそ、初めて信心の有難さがあるというもんだと思うのですね。どうぞ。